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おいたち
「こだまの会」(現・よみうりこだまの会)の発足
記録によるとこだまの会の発足は、1957年(昭和32年)である。敗戦から12年後の世の中は貧しかった。そのころ主婦であった女性は、10代を戦中に過ごした。女学校へ行っても勉強はなく、戦争の道具ばかり作っていた。それで学びたいという気持ちを強く持っていたと話されていた。戦後民主主義になったとはいえ、社会は男性中心、家庭は夫が主権、次が舅・姑、嫁は子供を産み家事をこなす役割だった。必然的に家から出ることはめったにない。PTAなどでも話を聞くことが主だった。戦後の新しい社会の中で、どう考え、対処していったらよいか女性たちは戸惑っていたのだろう。
そんな中で、読売新聞の投稿欄"女性の声"と"女の言い分"は本音を書ける場だった。(匿名も可)その後"赤でんわ"、"ぷらざ"と名称が変わってゆく。昭和31年11月の新聞週間に当たって、投書者から6名を選び座談会を設けた。座談会終了後の出席者の反応は「地域の集まりやPTAの話し合いと違って、何の気がねもなく本音が話せて、しかもこちらの言葉をそのまま受け止めてもらえる。こんな経験は初めてです。胸のつかえが取れました」と、熱いもので、ぜひこの会をまたやらせてくださいと懇願された。当時の澤婦人部長は、担当した鷲尾千菊記者に、君がやるしかないねと言われたそうだ。聞くところによると、鷲尾千菊記者は社内で唯一の女性記者であったようだ。会員のエネルギーは大変なもので、鷲尾記者の片手間では収まらなくなり、会を作って世話人を決めた。その会が、3年後の昭和35年には運営委員を6名に増やすほどに成長している。当時の活動の様子は、外に出かけているのが多い。人数が少なくてフットワークが良かったのだろう。"自衛隊練馬駐屯地見学"、"大映撮影所見学"、"国会見学"この時は市川房枝氏に会っている。"横浜市内見学"、"主婦会館見学"、"証券取引所見学"、"都議会見学"議長を囲んでの話し合いをしている。
初期のころのこだま誌のテーマを拾ってみると、"嫁と姑"、"妻の気持ち・女の気持ち"、"終戦記念日に思う"、"身近にある不合理"、"消費者は王様か"、"主婦が仕事を持つということ"など、生活や社会に密着したものが多かったようだ。当時、日本は高度成長期に向かっており、豊かになることに真剣に取り組んでいた。例会の講師やテーマも、"中東問題"、"勤評問題"、"参院選・安保・砂川判決"、"物価値上がりと経済"など、記者や専門家を招いての勉強会の雰囲気だった。会員は50~60人になっていたのではないか。これが1960年代までの様子である。
会員が増えて、みんなが平等に活動するというのが難しくなり、小さなグループを作ることが始まった。目的により、介護、子育て、地方との交流、趣味、地域など、さまざまな目的でグループが出来た。その傾向は現在まで続いており、新しいグループが誕生する。また初期のもので、現在も継続中のものもある。
その後バブルがはじけ、経済が低迷し、社会問題が次々に浮き彫りになった。それでも日本は先進国に名を連ねてG7などに出席している。こだまの会は単なる主婦の投稿グループながら、少しずつ力をつけて、内容も充実し発展させてきた。ただ、60年安保闘争の時に会としての運動をするかで意見が分かれた。その時に政治運動は個人が意識を持ち行動を起こすことはあるが、こだまの会としての行動や声明は出さないことで合意した。新聞社を母体としている会として穏やかな帰結であった。以来、政治の勉強からは遠ざかっていった傾向がある。このように、時代の流れの中で、求めるもの、表現するものの内容が少しずつ変化していったようだ。
設立に関わった鷲尾千菊氏はその後もこだまの会を見守ってくださっていた。お会いしてこだまの会の話になるとよく言われたこと。
「家庭だって、30年経てば主婦の世代交代がある。生まれた子供が30歳になって主婦になれるのだから。こだまの会も発足からの形をそのまま継続してゆけるものではないだろう。初期は専業主婦がほとんどだったが、今は何らかの仕事を持つ人が多くなっている。その中で、会員数の多くなった事務処理も対応が迫られるだろう。グループを作ったが、グループ間の交流や発表などを行って、さらに向上し自己を高めてゆくことだ。社会全体の高齢化に伴い、こだまの会の高齢化にも工夫が必要かもしれない。そして何よりも新聞社を母体にしている会であることを意識しなくてはいけない。新聞の行方を見守り、編集常識に沿う形で運営していく良識を持ちたい」
101歳のお祝いまで、お付き合いをさせていただいたが、こだまの会のことになると変わらぬ情熱で未来を語ってくださった。
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